こんにちは、nana(@nana_in_nz)です。
いつまでも自分に自信を持てない、そんなふうに思っていませんか?
実はわたしも、ずっとずっと自分のことが好きになれずにいました。
- 大丈夫だから、自信を持って!
- 経験積んで、自信をつけていこう!
こんなセリフを、今まで何度聞いたことでしょう。
声をかけてくれる方がいるのはとてもありがたいことだし、応援してくれるのもとても嬉しい、でも……。
「ありがとう」「がんばるね」という言葉を返しながら、もっともっと心配が大きくなっていました。
心の底ではそんなふうに言われるたびに不安に思っていたんです。
- 根拠がないのに「大丈夫」って言ってくれるのはどうして?
- 経験っていっても、失敗ばかりで…
正直に言うと、今だってぜんぶ前向きに受け入れられているわけではありません。
でも、自分の心構え次第で世界の観え方は大きく変わります。
なんでも「出来る」ことが、当たり前だった
小中学生のころのわたしは、なんでもよく出来る子で、自分に出来ないことなんてないと思っていました。
児童会役員もしていたし、水彩画も書道も作文もよく入賞したし、走ればトップグループにいたし、参観日の跳び箱の授業で頭から落ちたり(?!)、とにかく注目を浴びる子でした。
そんなわたしだったので、周りから「すごいね」と言われることを誇りに思っていてました。
「すごいね」「頑張ったね」と言われることで、自分の存在を認められていると思っていたのかもしれません。
出来ないことがあるたびに、失敗するたびに、自分のことがイヤになる
高校で学区外の進学校へ入学したわたしは、もう「すごいね」と言われる存在ではありませんでした。
何もできなくなった自分の居場所が、どこに在るのかわからなくなってしまったんです。
そんな時に頭にいつも浮かぶのがこのフレーズ。
憧れてたものは 美しく思えて
手が届かないから 輝きを増したのだろう
Moments 浜崎あゆみ
そして、気がついてしまいました。
「あんな風になりたい」と憧れているということは、手が届かないんだということに。
部活動でも、出来ない自分にイライラする毎日でした。
試合に出たいと思う反面、とくに団体戦では「自分が試合に出るのは本当にチームのためなのか」といつも考えてしまい、要するに目の前の試合に集中できていなかったのです。
「勝たないと意味がない」そんなプレッシャーだけがどんどん強くなっていきます。
プレッシャーに押しつぶされて試合に負けるわたしにチームメイトが声をかけてくれることが、何よりもつらかった思い出もあります。
- なぜ、負けたわたしを誰も責めないの?
- チームのために結果を残せなかったわたしがチームにいてもいいの?
こんな思いが消えないまま高校3年間の部活を終えてしまったのを、顧問の先生は見抜いていました。
こうしてわたしは、自分のことがどんどんイヤになったまま、プレッシャーへの弱さを克服できずに社会人となりました。
こんな自分なんていなくなってしまえばいいと思うことだってある
社会に出てからも、相変わらず自分のイヤな部分にばかり目についてしまいます。
- 誰かに迷惑をかけてしまった時
- 良かれと思って手を差し伸べたが逆に嫌な思いをさせてしまった時
- 何度やっても、思うようにいかない時
- 自分の伝えたいことが、相手になかなか伝わらない時
あぁ、こんなにいっぱい周りの人に迷惑ばっかりかけている人間なんて、生きている価値があるんだろうか……。
こんなわたしなんていなくなってしまえばいいのに、と思うこともありました。
「もしわたしが死んだとしたら?」と考えて
- 家族はわたしの死を悲しむだろうし、葬儀や残された物の処分などに追われる
- 警察官やお医者さんなどの仕事が増えてしまう
なんて終わらない妄想が始まってしまうことも。
自分がいなくなることを想定するのに、その後のことまで想像してしまい、結局疲れ果ててしまうのでした。
それでもなんとか這いつくばって生きているのは何のためなのか
こんなにも不器用に、だけどこうして生きているのは、周りに「好き」がまだまだたくさん溢れているから。
そんなことを考えていた矢先に、わたしの「好き」のなかで欠かすことの出来ない浜崎あゆみさんのある一言が飛び込んできました。
自分のためになんだったら、出来ないことばかりだよ。
君がいるから諦めずにいるよ。#anation味の素スタジアム#8月27日 pic.twitter.com/Vz9rcLuNfF? ayumi hamasaki (@ayu_19980408) 2017年8月21日
わたしなら、「君」に何を当てはめるだろうかと考えました。
わたしだって、自分のためにだったら出来ないことばかり。
だけど、わたしにはたくさんの「好き」があります。
- いつも隣りにいてくれるCさん
- 遠くにいながらも毎日側にいるように連絡を取り続けてくれる家族
- 頻繁ではなくても会うと元気になれる友だち
- 何度も何度もわたしを勇気づけ、喜びを共有し、居場所をくれたあゆちゃん
- 日頃のこんな悩みごとがちっぽけに見える程に美しい景色
- 新しい挑戦をしたり、より良い状況を生み出そうと踏み出す仲間
「好き」なひとやものがあるから、そのためにならと踏ん張り続けているのだと気づきました。
自分のすべてを、広い心で受け入れるということ
イヤだイヤだと思っていてもしょうがないじゃないか、と開き直ってもいいと思いました。
だって、イヤな人がいるなと思ったら少し離れることは出来るけれど、イヤなのが自分なんだったら離れることも出来ないのです。
いつも一緒にいる自分のことを「そんな自分でもいいと思うよ。」ってゆるく言ってあげよう、そんなふうに思えてきました。
あゆちゃんが好きなところも、計算ができないところも、頑固なところも、プレッシャーに弱いところも、全部ひっくるめて「nana」という一人の人間なのだから。
好きなものに、自分の名前をつけてみる
大切にしたいものに、自分の名前をつけてみよう。そうすると、自分をもっと好きになれるかもしれない。
そう思って、ブログを「NANA」という名前にしてみました。
後付だけれど、こんな意味もあります。
N・・・No
A・・・ayu
N・・・Nante(なんて)
A・・・arienai(ありえない)
「No ayu No Life」みたいなのが出来るはずだったのですが、日本語と英語が半分ずつで「あゆのいない人生なんてありえない!」。
実にわたしらしいものとなりました。
自信が持てないことを真剣に考える自分の本心とは
自信が持てないからイヤだと思ってるということは、本当はもっと自分を好きになりたくて必死になっているんだなって気がつきました。
そうしたら、なんだか、自信がないって真剣に考えていた自分ってがんばり屋さんだなぁっていう気持ちが芽生えてきて、不思議な気持ちになりました。
これだけ頑張っているんだから、ちょっと肩の力抜いてもいいんじゃない?と。
人生っていうものは、こんな感じでいいんじゃないかなぁ。
真剣に悩んだり、悩んでる自分を可笑しいと思ったり、自分がイヤだと思ったり、大好きな人がいるからまだまだ踏ん張りたいと思ったり……。
目まぐるしく色んな感情を持っているわたしだからこそ、いつも好きなことをしてエネルギーを補給していなくてはならないし、それでいいかぁってゆるく生きてみようと思います。
それでいいって今は思えたから、それでいい。
そんな自分を受け入れて、そうして今日も一緒に生きていくのです。
with LOVE, nana